高崎市上大類町 未来を信じる力で生み出す”町工場”の新たな魅力
工業都市、高崎市。中核市の中でも上位の工業出荷額を持つこの街には多くの工場がある。しかしながら、古くからの町工場は減少しているのが現状だ。高崎市上大類町の『群協製作所』代表・遠山昇さんに、“町工場の職人が生み出す新たな魅力”について聞いてみよう。
2018.11.03
高崎市とモノづくり
工業都市高崎市
工業都市、高崎市。
古くから商都と呼ばれてきたこの街が、モノづくりに目を向けはじめたのは大正・昭和の時代から。多くの高崎人が人生をかけて、この街の未来をより豊かにするために力を尽くした歴史は、数多く現代へと受け継がれている。
特に、モノづくりの分野では食料品をはじめ、金属や機械・化学などの諸分野の工場が並び、工業出荷額も中核市の中で上位の実力。交通拠点としての利便性も工業都市としての高崎市を支え、商工力を合わせた発展に期待が持てるだろう。
しかしながら、こうしたデータで注目されるのは大手の工場の数や額であることが多い。古くから街の中でモノづくりを営んできた職人や町工場の現在はどうだろうか。地元に根付いた“技と人”に焦点を当ててみる。
群協製作所
「高崎はモノづくりの街だけど……一人親方っていうか小さい町工場はどんどん廃業しているよね。」
そんな風に高崎市の町工場を語るのは、高崎市上大類町にある『群協製作所』代表・遠山昇(とおやまのぼる)さんだ。『群協製作所』は昭和38年創業の接手製造会社。現在はレーザー用のノズル製造や切断機・溶接機などの開発も手掛けている。地域の“技と人”で全国4千社とのつながりをもつ“元気な町工場”、そんな“モノづくりへの情熱”溢れる企業の社長に聞く、“町工場の職人が生み出す新たな魅力”とは何だろうか。“未来を信じる力”でつくる自慢のモノづくりと高崎市について聞いてみた。
今回取材するのは高崎市の町工場『群協製作所』。実はこの町工場での“ある取り組み”の成果は凄まじく、全国各地から視察が来るほどだとか!? 一体何が……密着取材、開始です!
国と時代と異なる文化
工場で育つ
「もともとウチは旋盤屋(機械工作で金属加工を行う仕事)。当初は工業用の機械部品を繋ぐ菅・接手だけをつくっていました。50年前はそういうのがたくさん売れていたんですね、時代が変わるにつれて需要も少なくなって。」
遠山さんが懐かしそうに話すのは自身が旋盤加工の現場で汗をかいていた時代。社長に就任する前は日々機械の取扱作業を行う職人さんだったという。今から20年ほど前、家同然のように子供の頃から“遊んでいた”という工場での思い出を伺った。
「私も現場で旋盤とかね、マシンを扱っていました。職人やりながら思ったのは、やっぱり毎日の機械作業だけしていたらつまらないなぁということ。若い人はどんどん、やめていきますよね。」
「会社に入ったころは教育制度もなくて、『難しいものをつくりたければ、見て覚えろ』と。板前さんの世界にある、徒弟制度のような状態。仕事の仕方もめちゃくちゃで、作業中にタバコ吸ったりガムを噛んだり、時間は守らないし。夏の熱い時は下着で作業している職人もいたほどです、はは。」
お決まりの“下町の工場”といった風景。実家は工場と一緒になっていたような状態で、と話す遠山さんはそうした働き方を良くも悪くも「時代でした」という。
「そんな勤務態度だったのでね、子供の頃の僕もやりたい放題。小学生の頃から勝手に会社の機械を使っていました。小学生の男の子って、カブトムシに夢中になるじゃないですか。カブトムシの巣をつくるために、拾った木にボール盤という機械で穴をあけて……機械は壊すし、大怪我したこともありましたね。」
「それが絶対に悪いことだったとは、言えないんです。僕にとっては良いところもあったから。おかげで小学校六年生の時には『製造業に就く』と決めていました。父も母も毎日本当に忙しそうでしたが、すごく楽しそうに仕事をしていたので。『そんなに面白れえなら、俺にもさせろー! 』って、そんなノリでね。」
異国の地を見る
パワフルな子供時代を過ごした遠山さん。実家の工場へ戻ることを意識しつつ、大学卒業後は大手の製造会社へ入社したという。その後、ワーキングホリデービザを使いオーストラリアやアメリカへ。異なる環境に身を置くことで、新しい働き方に出会った。
「オーストラリアでは新聞記者を……ちょうど、こんな感じでインタビューをしていましたね。当時はボイスレコーダーもなかったから、でっかいラジカセをもって、カセットテープですよ。たまたま仕事の募集があったものですから、ラッキーでした。」
「僕、旅行も好きなので。アメリカではツアーガイドの仕事もしていましたね。今の仕事もそうなんだけど、飛び込みなの。『雇ってください! 』って。当時はビザも厳しくはないから、雇ってくれて。シティーツアーやナイトツアーで向こうのビジネスマンの働き方をよく見ていました。」
見知らぬ土地で、未経験の職種へ飛び込んでいった遠山さん。新しいことばかりの仕事の中で感じたのは、圧倒的な効率化による就業時間の短さ。出国前、日本で大手企業に勤めていたころは連日終電での帰宅が当たり前だったことを思い出す。職種や国が違うからではない、“仕事”に対する価値観や文化が違うのだ――そんな想いを持つようになっていった。
「あの頃は、残業100時間なんて普通じゃん?みたいな。比べて欧米の人たちは皆5時までしか仕事をしない。相当びっくりしましたねぇ……明るいうちに帰って、仕事終わりにゴルフのハーフも回れる。かなり効率的で、金額を叩かれて無理やりやるような仕事ではできないなと感じました。」
すごい、と感じるだけで終わらないのが遠山流。欧米の人間にできて、日本の人間にできないわけがない――自身が体験した働き方とのギャップは、帰国後の彼に大きな影響を与えることなる。
サマータイムやウィンタータイムも手伝って、退勤後も明るい中でカフェや映画へデートできると遠山さん談。(なるほどそれはいいなと思いつつそんな予定がないとは編集長談。)
ちょっと余裕のある暮らし、が日本を大きく変える予感です……!
挑戦
地元の町工場を変える
勉強期間を終え、実家であり幼い頃からの夢だった『群協製作所』へ戻ってきた遠山さん。大手と中小、国内と海外、今までとこれから。見つめ直した地元の町工場に、見えてこなかった新しい魅力があることに気が付いた。
「接手の製造は私の父が始めた事業ですけど、せっかくこんなにいい設備や機械があって、職人さんもいる。それなのに接手だけ作っているのはもったいないなという思いがありました。職人として、お客さんに喜ばれるものをつくろうと色々試行錯誤して……一番あたったのが、レーザーのノズルでしたね。」
「それからですね、お客さんに『この消耗品はつくれないの?』『こういう部品も欲しいんだけど』と頼まれるようになって。そのうちには金属だけじゃなくて、『レンズはないの』なんて言われてですね。さすがに作れないから海外の企業と交渉して日本の代理店になりました。」
「そんな風に、50年以上ずっと部品をつくり続けている会社が多くの金属加工をするようになり、輸入をするようになり……去年からいよいよ、金属加工の装置も作るようになりました。色んなチャレンジを続けた結果、今の工場がありますね。」
怒涛の展開に驚く人も多いのではないだろうか。もちろん、先代の社長の時代にも「別の部品を作れないか」という問い合わせはあったという。しかしながら、少数の新部品を作ることは手間もコストもかかる作業。すぐには請け負えない仕事だった。
なぜ、遠山さんはこうした仕事を引き受けることにしたのだろうか。質問を投げかけると、「私には3年後や5年後の未来が見えるからですかね。」との返事。3年後、5年後には絶対に利益の取れるビジネスになるから――そう周囲を説得しながら、全国6千社へ飛び込んだ。「未来が見える」という頼もしい響きを裏付けるのは、遠山さんの未来を信じる力、そして何より足で稼いだ信頼の数だ。
「初めは利益のでるビジネスではありませんでした。ですが、いずれ必ず成果がでる……そう信じていましたね。日本に比べて海外の研究は10年進んでいると言われています。日本の職人が持つ緻密で丁寧な技を残しつつ、欧米をヒントに未来を見据えてビジネスをする。お客さんも県内から徐々に全国へと広がりました。」
「『群協製作所』という社名は父が付けたんですが、おかげで日本全国を回ると『で、広島に営業所があるんですか? 』なんて聞かれますね。大企業ならともかく、群馬の町工場からわざわざ……と。営業を始めた頃は群馬ナンバーの自家用車でしたからね、驚かれましたよ。」
そんな情熱ある彼が自信をもって勧める、高崎の町工場から生まれた商品たち。気にならない人などいないだろうと、したたかな町工場の職人魂を感じた。
群馬県の群、そして協力の協で群協製作所。商人気質のお父さんが、腕のいい職人さんを集めて文字通り協力し合いながら始めたのがきっかけだそう。それにしても遠山さん、自家用車で日本縦断とは……考え方がアメリカサイズです…….。
当たり前を変える
そして何よりも印象的だった、欧米の“働き方”や“仕事観”。帰国した後も遠山さんは個人として、職人として、そして今の社長という立場として理想を求めて挑戦をし続けたという。冒頭でも紹介した“全国から視察がくるほど”の町工場になった理由、それは『群協製作所』の中で遠山さんの夢が叶ったことと関係している。
「残業しないだけの仕事量を受ける……というのは前提として。マルチプレイヤーを育てることへ力を入れました。職人は『旋盤馬鹿』というか、旋盤での加工しかできない・やらないという人が多いでしょう? 職人魂は大事ですけど、時には出張工事をしたり、設計をしたり、営業をしたりもね。」
スポーツで言うところの、ユーティリティープレイヤーとしての職人。近年では“多能工”という近い意味の言葉がよく取りざたされる。“多能工”は多くの機械を扱える職人という意味で、工場から出ないことに変わりはない。より、マクロな視点に立った職人の在り方が必要だと遠山さんは考えた。
「学生時代はサッカー部だったんです。サッカーの試合はどのスポーツよりも走りますから、サッカー部は走ることに関しては一番になれました。すると、自然に他のスポーツもできるようになる……応用が利くんですね。実際、海外では“アメフト出身のメジャーリーガー”なんてよくいましたよ。それは仕事も一緒じゃないでしょうか。」
「職人に対して“本当の営業マン”を求めたり、ノルマのあるような仕事はさせません。ただ、お客さんの話を聞いて、見て――例えば展示会の説明員をやってもらう。すると、自分の作っている商品のお客さんやお客さんの興味がわかる。製造に張り合いが、出ますよね。電話対応する女性も製造の現場を知る、工事担当者も営業を知る。そういうことです。」
ここで重要なのは、決して無理にやらせないことだという。こっちもやってみなよ、面白いよ――遠山さんが自然と抱いた想いを、社員へと伝えていった。1人2人と視野が広がるごとに「仕事に無駄がなく残業がない」「男女が共に活躍できる」「日々の作業に張り合いがある」風土が醸成されていく。
小さな町工場を元気にしたのは、遠山さんの“未来を信じる力”が社員へと伝わったからだろう。異国の地で「日本人でもきっとできる」と信じた未来は、現実のものとなった。
余談ですが。
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これからの高崎の街で
町工場から繋がる“和”
様々な挑戦をし続けてきた職人である遠山さん。小さな町工場の大きな活躍は、この街へどんな影響を与えていくのだろうか。終わりに、地元密着の活動についても伺った。
「新しいレーザー分野の仕事も、近くの町工場との付き合いからはじまりました。だからこそ、地元とのつながりも大事にしています。高崎市には『ヤルベンチャーウィーク』という地域交流や職場体験の企画があるので、学生さんを受け入れたりね。」
「中学校のPTA会長をした時には、色んな親御さんの職業を子供たちに知ってもらう機会づくりをしましたね。中学生だと先生と親の職業しかわからないでしょう?世の中にはこういう仕事もあるんだよって、弁護士だったり水道屋さんだったり親御さんが話して聞かせて。私はもちろん、モノづくりの面白さを伝えましたねぇ。」
地域とのつながりも、モノづくり。どこまで突き詰めても変わらない情熱が、遠山さんを動かしている。特に“中学校での職業紹介”は人気の企画で、10年連続開催だとか。今年の新入社員の中には、中学校で聞いた遠山さんの言葉に心打たれてモノづくりの道を目指した若者もいるというから驚きだ。
そしてもちろん、自身の職人としての夢も忘れない。先に紹介したように、『群協製作所』は金属加工の会社ながら昨年「レーザー切断機」と「レーザー溶接機」を開発した。金属加工の町工場が分野を越えて、メーカーの領域へも果敢に挑戦していく。同士である町工場、職人たちへの想いを胸に。
「まだまだ種まき状態で、赤字ですよ。でも、3年後や5年後に売れるかなと考えています。というのも、うちで作った切断機や溶接機は大手が参入しない小型で安価なもの。結構、オンリーワンだったり日本初だったりする商品が、中小企業ながらあるんですよ。大手の切断機を買おうとすると1台1億円だったりしますがうちのは小型で2千万円。小さい町工場で始めるには、ちょうどいいですよね。」
縮小傾向にある地域の町工場の存在。各町に根付いた技術や伝統が途切れないように、遠山さんは町工場を支える町工場を目指す。社名の「協」の字に込められた同士への感謝の想いは、世代を超えて繋がっていく。
「和を以って製造業となす」、『群協製作所』に掲げられた理念のように。
高崎の街で描く夢
『群協製作所』がある高崎市上大類町は、遠山さんにとって地元の町。変化する町のこれからと、“仕事と暮らし”を良くするヒントについて聞いてみた。
「50年ほど前に比べると、だいぶ文化都市になったなぁと思います。私が小さい時なんてね、工場のまわりは田んぼと桑畑ばかりでした。高駒線(群馬県道27号高崎駒形線)のところにある長井酒店、お店はあそこ一件だけで。大人も子供も買い物に行ったもんです。塾も遊ぶところもない町でしたから、近くの飯玉神社へ上大類中の子供たちがみんな集まってましたね。」
高崎市民にはお馴染みの環状線(高崎市道高崎環状線)が全面開通したのは平成7年のこと。たくましくなった血管が健康な体をつくり上げるように、小さな町も大きく元気に育ったことがわかる。しかしながら、“変わってしまった”と嘆く部分がないとはいえない。“モノづくりの街”を支える筋肉である町工場は、縮小・減少を続けている。
「ある程度の体力がある製造業じゃないと生き残れない時代になりました。単純で簡単な仕事はみな、海外へ行ってしまいましたから。今、日本に残っているのは付加価値のある難しい仕事や少量多品種の仕事。そんな風に推移してきていますね。」
「だからこそ、新しくできるコンベンションセンターなんかで、他地域のメーカーさんも巻き込んで工業・製造業の“モノづくり”を魅せられればと思っています。高崎はね、工業都市なんだから。有効活用していきたいですね。新潟県の燕三条で行われる展示会のように。」
遠山さんはにっこりと笑って、「新潟県の人にできて、高崎の人にできないわけがないですよ。」と遠山流。この街にはモノづくりの技術と伝統、そしてやる気のある若手経営者もいる。各都市の、各町の得意を活かしながら、多様な魅力をこの街で作れたらいい。遠山さんはそんな未来を描いている。
「前橋には工業関係が少ないですから、都市の得意不得意を互いに活かして盛り上がっていければいいですよね。たしかに、製造業・工場は地味ですから。若い人には人気がないと思います。でも、『下町ロケット』のような熱い、製造業の良さを知ってほしいですね。」
「それから、夢を見ることでしょうかね。僕は毎日、色んな夢を見ちゃうんですよ。モノづくりも好きだけど、旅行も好きだし新聞記者も面白そうだと思ったからやったし。夢を達成させるのは難しいけど、夢を見て構想するのはタダ。」
「レーザー用ノズルがあたったときも『遠山、運だけはいいよな』って言われたけれど、その前にたくさんの失敗があるからね。夢をみて、挑戦して。失敗することもいいんじゃないかな。そうしたものたちのおかげで、脚光を浴びる商品やモノができてくるんですから。」
子供の頃から変わらない挑戦心とモノづくりへの飽くなき情熱。子供の頃にケガをした経験が、機械を壊した失敗が、人を大人にしてくれるのだ。そしてなにより“好きなことを続ける”こと。遠山さんの“好き”な気持ちが、会社のビジネスへ、地元の町工場へ、地域の子供たちへ形を変えて伝わっていく。
街づくりも、きっと。
高崎市を“好き”だという情熱が、街の中で形を変え時代を超え、街の良さをつくりあげていくのだろう。色んな人の“好き”を集めた街の風景に、これからどんな魅力を加えていくか。「失敗することもいいんじゃないかな」そんな先輩の言葉を道しるべにして進んでみたい。
株式会社 群協製作所
住所:群馬県高崎市上大類町392-2
電話: 027-352-6765
HP:http://www.gunkyo.co.jp/
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西 涼子
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群馬県でフリーのライターをしている西(編集長)です!
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