あら町のミニシアター スクリーンに映る街をみる
映画の街、高崎市。そんな呼び名がつくほどに、この街の人は映画を身近に感じる生活をしている。特徴的な映画館と言えば、真っ先に挙がるのが『シネマテークたかさき』だろう。総支配人の志尾睦子(しおむつこ)さんに高崎と映画の在り方を聞いてみた。
2018.08.16
高崎と映画
市民と映画
映画の街、高崎市。そんな呼び名がつくほどに、この街の人は映画を身近に感じる生活をしている。春には高崎映画祭、街にはポスターが貼られ、フィルムコミッションやミニシアターが息づく様子はとても地方とは思えない。
始まりは「音楽の街」に由来する。市民オーケストラを前身とする群馬交響楽団の草創期をテーマとした映画『ここに泉あり』。出演者もロケ地も、それを支える力もすべて高崎を中心とする市民から生まれたものだった。フィルムコミッションという横文字がこの島へ到達するより前に起こった市民活動。全国的にも大ヒットしたあの映画は、未だに“市民の映画”として愛されている。
シネマテークたかさき
そんな高崎の中でも特徴的な映画館と言えば、真っ先に挙がるのが『シネマテークたかさき』だろう。映画を愛する市民の手によって2004年に作られた、あら町のミニシアター。大手シネコンとは一線を画すプログラムは、通好みな名作映画や新風を感じる作品がずらりと並ぶ。
今回はそんな映画文化を守り育てていく『シネマテークたかさき』総支配人の志尾睦子(しおむつこ)さんにお話を伺った。映画を通じて伝えたいこと、映画を通してみたいもの。高崎で回り続けるフィルムの中に、これからの高崎を見つけてみよう。
高崎、といえばの映画話。ミニシアターがあるって、実はすごいことなんですよ~。
好きな映画を思い返し思い返し、読んでみてくださいませ。
志尾さんと映画
映画のない暮らし
『シネマテークたかさき』『高崎電気館』『高崎フィルムコミッション』『高崎映画祭』…これらの舵を取り、高崎の映画文化を最前線で守る女性が志尾さんだ。さぞかし映画漬けの人生を歩まれているのだろう、と尋ねると「未だに映画が好きかわからない」と衝撃的な答え。というのも、彼女の映画人生の封切りは意外な形で始まっている。
「学生時代…夢と希望に破れて大学に行かず、ひきこもっていました。その時に仮面浪人の友達が『もったいないから映画観なよ』と言って。それが映画を観始めたきっかけです。」
「『映画が好き』という意識はなかったですね。ただ、演劇を専攻していたはずのゼミで『まったく(舞台を)観てない』と言われちゃって…卒論が書けなくて。そのくせ授業で引用される映画は観ているから、先生が『なに君、映画すきなんや。映画でやり。』って言われたんです。そこで初めて『私って映画好きなんだ…』って思いました。」
偶然とご縁、それから少しの誤解も相まって、志尾さんは映画に出合うこととなる。ビデオを借りて、海外の文献を読んだ。ほぼ独学で、映画の研究を進めていった。
そんな志尾さんに、転機が訪れる。今の彼女に大きな影響を与えた『高崎映画祭』への参加だ。
「映画で卒論を書きなさいと言われたあと、友達ができたんです。『卒論映画なんだ、興味あるんだね!』って感じで映画祭のスタッフに誘われて。(友達に)なりたてだったから断れなくて…流されて行っちゃった、みたいな…」
友達に連れられるまま、映画祭事務所の扉を開けた志尾さん。乱雑に脱ぎ散らかされた靴とでたらめに掛けられた衣紋掛け。所狭しと本が積み重ねられた室内は、映画を愛する人達でひしめきあっていた。
「ボランティアとは聞いていたんですけど、市がやっているような…盤石な組織体制や専任業務の方がいると思っていました。体育会系みたいなノリと汚い事務所…初日から、入ったことをものすごく後悔したんです。」
不運か幸運か、やめ方がわからなかったのだと志尾さん。入ってから1年は悩みの多い日々が続く。
「毎週会議があって、遅れる人や休む人は必ず留守電を入れる約束でした。真面目だから『電話をしなきゃ』とは思っていたんですけど…一番怖いディレクターの女性が電話に出ちゃうかもしれない。彼女が会議で『誰々が休み、誰々が遅刻…』って読み上げる言い方もまた怖くて。事務所に連絡をしたくないっていう理由で皆勤賞でした。本当に、そういう性格なんですよ。」
「なんで映画祭のスタッフをやろうと思ったの」という問いにも答えられませんでしたから、と志尾さんは笑う。ビギナーの彼女にできる仕事は少なく、友達の陰に隠れながら活動を続けた。当時の彼女が見ていた世界は『東京』。地元に残っている自分は“負け犬”で、こんな場所では何もできないと信じて疑わなかった。
ところが、映画祭が進むにつれて見えてきたものがある。それは本番間近のことだった。
映画祭との出会い
「映画祭の受賞者が6割くらいしか揃わない、寂しい時期ではあったんですが、アジアの有名な監督や俳優さんを呼べていたんですね。他にも『大変な思いをして東京に観に行った映画が、映画祭で網羅できる』ことに気が付いたり。なのに映画祭の凄さは周りに知られていないというのも面白かった。“映画”ではなく“映画祭”に没頭していきました。」
高崎にも凄いものがある――映画祭という“うねり”に魅了された志尾さん。中心となって活動する人達をみて、「あそこへ行きたい」と強く思った。周りのシネフィルと話ができるように、ミニシアターの映画を観始める。
「『手の空いている人来て!』って言われて行くんです。でも新人って忙しい時期には足手まといなんですよね。事務所の中で協議している人たちに『あっ』って顔をされて、謝られて、帰される。悔しかったですね。」
その後、映画祭の中心メンバーとして活動し、映画を仕事とするようになった志尾さん。「あそこへ行きたい」と願ってから触れてきた映画の数々。昔は“暇つぶし”でしかなかった映画が、自分の血肉になっている。
「最近は、映画を観れないと禁断症状が出ますし、仕事だからといって朝から晩まで観ている気持ちの余裕もないです。純粋に映画を観れなくなったというのは、悩みかもしれません。」
柔らかな笑顔を見せて、こう付け加えた。
「あれ、そう言うと…映画のこと好きなのかな。」
シネマ+phil(愛)でシネフィル。映画通や映画狂のことを指すそうです。
当時全国のミニシアターで上映されていた本数は400本。志尾さん曰く『網羅できる数でした』とのこと。…なるほど、愛とかいて狂と読むのも納得です。
映画好きへ愛をこめて
夢と希望と破天荒
第13回から映画祭に参加し、18回からはプログラムディレクターやプロデューサーとして活躍している志尾さん。そんな彼女を語るには外せない、映画を愛した大人たちがいる。
一人は、映画祭の発起人ともなった「シネマテークたかさき」の初代総支配人・茂木正男さん。高崎映画を支えた立役者であり、映画の世界に志尾さんを引き込んだ人でもある。
自主上映や映画祭を企画し続けた彼は、2004年に法人「NPO法人たかさきコミュニティシネマ」を立ち上げる。そこで誓われた13の事業項目の第一弾として『シネマテークたかさき』は設立された。
「茂木さんには何かを教えてもらったことも、頼まれたことも一切ないです。NPO立ち上げの手続きも私がしたし、映画館に勤める時すら…『茂木さん、仕事をやめてくれって言われたらいつでもやめますよ』って言ったんですけど『約束できないことをやめてとも言えないじゃん』って言うんですよ!」
ひらりひらりとかわすような物言いの茂木さんに、生真面目な志尾さんがやきもきする姿が目に浮かぶ。周りには「(映画祭は)ボランティアだし、そこまでしなくても」と止められたが、手を抜けないという気持ちが勝った。映画館の立ち上げも不確定なままに仕事をやめ、飛び込むことを決めた。
「準備中は給料がでなくて失業保険。そんなスタートでした。支配人になったのも、私しかいないだけで抜擢されたとかじゃないんです。『志尾、支配人ね』って茂木さんに言われたのは最後の最後でした。」
茂木さんの戦略に乗せられた…というように、想像せざるを得ない。きっと、茂木さんには志尾さんに宿る情熱が見えていたのだと。「茂木さんは仕方がないな」――そう志尾さんが動くことを知りながら。
レディ・メイドのメッセージ
もう一人、志尾さんを大きく変えた映画好きがいる。ディレクター主義をとる高崎映画祭の核、プログラムディレクターを第二回から長年務めていた吉野さんだ。
「この人になりたいと思った人でした。彼女が辞めた後にディレクターを名乗るのがおこがましすぎて。凄すぎたんです。」
ため息。それほどまでに志尾さんが今も尊敬してやまないプログラムディレクターは、「一番怖い」と紹介した彼女である。映画祭の面白さにのめり込むほどに、彼女の厳しさや教えてくれない背中に憧れた。
「ある時『卒業したら映画に携わる仕事に就きたい』と話したことがありました。すると吉野さんが『携わるって、何』と。私はぼんやり『中枢にいける、制作会社とか配給会社ですかね』って答えたんです。当時は本当に、映画の上映者を“作り手になれなかった人たち”がやっていると思っていました。」
表舞台と裏方。明るく華やかな世界と自分の位置に優劣をつけていたと語る志尾さん。東京に行けずにくすぶっていた気持ちを口にしたときには、『やってしまった…』と思ったが遅かった。
しかし、吉野さんは怒る風でもなく言葉を返す。あまりにも、想像できなかった言葉を。
『私は、映画祭のプログラムディレクターを一つの自己表現としてやっている。』
『作る人と上映する人、どっちにも優劣はないの。同じ、表現者だから。』
そこでスイッチが入ったんです、私はこれがやりたいのかと――当時を思い返しながら、志尾さんは熱い口調で語ってくれた。目から鱗、青天の霹靂。がらがらと音を立てて崩れ落ちたのは、映画への先入観か、自身のコンプレックスか。
吉野さんの作ったプログラムを改めて手に取ると、彼女の思考が浮かび上がって見えた。作品を観て欲しい時間帯、隠された共通点、観る人の気持ちの動き。つくられた映画を組み立てなおす表現方法にわくわくした。
「時々答え合わせをしてくれました。『キャメラマンが一緒だからですか』と言うと『よくわかったね』って。採算が取れるようにしつつ表現をしていくことが、すごい面白いと思いましたね。」
だからこそ、シネマテークたかさきのプログラムは唯一無二だ。プログラムは上映リストではない。組み合わされたデザインの中には、志尾さんからのメッセージが込められている。
プログラムという表現方法に出会うまで『レディ・メイド』がわからなかった、と志尾さん。確かに、便器にサインをして芸術ってどういうこと!?と思いますよね。
作ったものをどう見せるか、それも表現なのですね。深い。
シネマテークたかさきの歩み
憧れへ向かって
映画の世界に進むことを決めた志尾さん。「シネマテークたかさき」の立ち上げエピソードも聞いてみよう。
「全員20代のスタッフ4人で運営を始めました。茂木さんは総支配人で、彼はNTTに勤めていたので給料はもらわずに経営だけ。映画祭のスタッフを無償でやっていた私たちにとっては『お金貰っちゃっていいんですか!?』という発想で…2人分の給料を4人で分けたり。ほんとね、うまくやったなと思います。」
「高崎が24万都市だった頃でした。当時、ミニシアターが成立するのは40万都市と言われていて…『3年持たせます!』と宣言したら『何言ってるの!半年だよ!』と言われたり。実際、映画祭と恒常的な映画館は大きく違っていて、色んな発見とノックアウトを何度もされていましたね。」
それでも、好きな映画に触れられていることがすごく幸せだったんです…と志尾さん。大変ながらも、好きな道を歩くこと。憧れの大人たちと共に進む自分がいた。
「3年目に差し掛かる時に、うちの茂木さんが何を思ったか2館目(2階)をつくると言い出して。」
4人がようやく一息つけるかという頃。休む間もなく茂木さんからの指令が降ってきた。当時の『シネマテークたかさき』の座席数は1階劇場の58席のみ。やりたいラインナップも企画上映も叶わなかった。
「設立時から2階にもう一つ、というのは聞いていました。でも、1つの劇場を4人で回すので手一杯だったんです。『お給料も保険も整ってないのに、何が二館目だ!』って、よく喧嘩しましたね。」
それがある日、思わぬ形で決着がつくこととなる。
2007年、シネコンの登場で全国の映画館がつぶれていった時期だった。それに目を付けた茂木さんは、閉館する映画館から“映写機と椅子を丸ごと300万で買い取って”きたのだ。
「そこでまた大喧嘩ですよ。『誰が働いてると思ってるんですか!』なんて。でも、買っちゃったって言うし、ボスがやるって言うから仕方なく。どこかで理解はしていました。今踏み切らないと次はないことも、高崎の映画文化・従業員を守っていくには1館では足りないということも。」
そうして、『シネマテークたかさき』は二つ目の劇場をつくるために、動き出す。スタッフ皆でトラックを借りて、機材を新潟まで取りに行った。2階の改装を進め、寄付を募り、映画館を成り立たせるために動き回った。
そこで、最大の不幸が訪れる。
「やるか、といって始めた途端に茂木さんが癌になっちゃって。」
「あれよあれよと工事は進むのに、寄付金は集まらない。事業拡大や成功じゃなくて、『すごく大変だから、2館目をつくるんです』というのは伝わらないんですね。」
その後、2館体制となったのを見届けてから茂木さんはこの世を去ることとなる。無茶と言われた夢を掲げ、巻きこんでくれた茂木さん。シネマテークにとって、高崎の映画文化にとって、大きなエネルギーだった。
そしていよいよ、志尾さんの戦いが始まるのである。
皆と共に
茂木さんが残してくれたものは、大きい。残された自分に守っていけるのか。
総支配人を失って、トップとなった志尾さん。山積みの課題を前に、途方に暮れる間もなかった。
「2階の改装費も5000万円くらい払えてなくて。建設会社の人に待っていただいたんです。『茂木さんの熱意にほだされて、協力するから。』って。」
従業員を路頭に迷わすわけにはいかない、茂木さんの残した映画館を私が潰すわけにはいかない。想像しがたいプレッシャーだっただろう。社員全員で、知恵を出し合いながら試行錯誤を続けた。
その中で生まれたのが出張上映やフィルムコミッションだ。映画館にとらわれず、映画文化を包括的に育てていく。それは、「NPO法人たかさきコミュニティシネマ」が掲げた13の事業項目でも描かれた未来だった。特にフィルムコミッションでは、映画の制作段階を支えることができる。映画を上映するだけではない、映画文化の守り方が見つかった。
茂木さんが見た未来を目印として、志尾さんは映画を守り続ける。高崎の文化を守り続ける。
夢と希望と破天荒さを忘れずに。
「茂木さんの話にはオチがあって。300万で買い取った椅子を搬入するぞというときに、茂木さんが『こんな綺麗な映画館に、あの椅子入れたくない』って言いだしたんですよ。たしかに皆、あの古い椅子は似合わないと思ってたけど!予算を浮かせようとして、結局ジャンクと新しい椅子の手配にお金がかかる。そんなことの繰り返しで…面白いでしょ?ほんとね、そういう人だったんですよ。」
高崎で映画をつくる
映画、文化と商売
今後、『シネマテークたかさき』は映画の街でさらに羽ばたいていくだろう。志尾さんは『シネマテークたかさき』に限らず、高崎の映画文化の未来について話してくれた。先に述べておくならば、これは映画に限った話ではない。
「私の友人の音楽に長けた子がレコード屋をしていたんですが、経営が成り立たなくなって。いざ閉じると言ったらものすごい人が来てくれたそうです。店主は『あんたたちが日々来てくれたら潰れなかったんだ』と言って。その発想に、びっくりしましたし…他の映画館が閉じるときにも耳にする言葉でした。支える側にも責任はあるんだと思いました。」
「一方で『最近行けてないんだよ、シネマテークに』っておっしゃった方がいて。『行けないんだけど、自分の街にシネマテークがあるだけで、生活が潤う気がする』って続けられたんです。これもすごい言葉だと思って。街の誇りや象徴として存在し続ける…そういう役目もあるんだと。」
文化に取り換えは聞かない。『シネマテークたかさき』と映画文化を守る志尾さんは、自身の仕事に“象徴として存在し続ける役割”を感じた。そこには、“支える側の責任”もある。
「大事に思っている場所なら行かないといけないし、文化を育てたいけど行けない人達にどう参画してもらうのか考えないといけない。私たちも、利用者も、全体で関わっていかないといけないですね。」
文化、それは目に見えないながらに一人一人が抱いて育ててゆくもの。赤子のように繋がりなしには生きられぬ脆いものであり、やがて大きな花を咲かすもの。
「“高崎で暮らす”時に『シネマテークたかさき』があるかないかは、人々の気持ちにどれだけ関わっていられるかです。」と志尾さんは言う。文化と市民、コミュニケーションなしには成り立たないのだ。映画を愛する者たちが踏み固めてくれた“けもの道”を、未来へ続く道にしていくためには。
映画から見えるもの
そして、もう一つ。高崎市民としても成し遂げたいことがあるという。「高崎を、すべての可能性につながっていく街にしたいですね。」と志尾さん。学生の頃を思い返して話してくれた。
「自分は東京志向が強かったから、この街にいては何もできないって思っていました。今は時代もあって、どこにいても何でもできる。それでも、気持ちとして、感覚的にできないと思ってしまうことはまだあると思うんです。“ここにいたら何もできないよね”という考えすら及ばない街に、特別にすごい人じゃなくても何でもできると思える場所にしたいと思います。」
きっとそれは、志尾さん自身の話なのだ。今は“特別にすごく”見えている彼女の、色んな失敗や挫折の話。憧れた大人の生き様、数多の人がつくり上げる映画。そこから読み取れるのは、あなたへのメッセージではないか。
「映画では、向こう側を見ています。作り手を。映画は人がつくるもんだというのが持論なんですよ。会ってみるとその通りの人物だし、映画はそんなに好きじゃなくても会った後に観返すと全然違う。」
「昔は映画を何回も観返すことは、時間がもったいなくてできなかったんですね。でも、経験した上で観ると違うものに見えるし、作り手を見たら変わって観える。私は人の生き方を入れて映画を観ることを面白いと思います。おしつけはせずに、それを面白いと思う人へ、届けていきたいですね。」
毎月『シネマテークたかさき』から発行されるスクリーンニュース。8月号の『高崎グラフィティ』に宛てられた志尾さんの言葉で締めくくろう。
こうした映画が高崎の地から生まれ、旅立つ事に素直に感激する。
新しい青春の落書きは、いつの日かまただれかの憧れになるのだろう。
そう願ってやまないのだ。
シネマテークたかさき
住所:群馬県高崎市あら町202番地
電話:027-325-1744
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西 涼子
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